弘法大師様とは

今から1200年以上前に実在した高名なお坊さま。真言宗の開祖である空海さんのことやで。

空海と名乗るようになったのは、高知県室戸の御厨人窟(みくろど)て洞窟というか穴ぼこというか、

そこで思いついたらしいわ。

こんな感じ。僕らが歩いてるときは入れたけど、落石があって今は入られへんらしいわ。

ここは空海さんが修行してた当時と変わらんはずやから入られへんのはホンマ残念なことやね。

何とかならへんもんでしょうか・・

ほんでこれが中から外を眺めた景色やね。

空と海しか見えへんから空海に決めたとか、穴から見える空と海があまりに綺麗だから空海に決めた、

とか所説いろいろあるそうやけど、空と海が綺麗やからって方が素敵やん。

だって四国の海と空めっちゃ綺麗やから。

しかし、こんなところで修行してたって食べ物とかどーしてたんやろ?

差し入れられた“うどん”があまりにも美味しかったから“うどん”にするわ。

てなことにならんでよかった。

では、歩き遍路行く前に空海さんのこと学びましょう。

1.修行まで
774年に現在の香川県善通寺市の豪族である佐伯直田公の三男として産まれてん。(幼名は真魚(まお)で75番の善通寺が生誕地だそうです)かわいい名前やね。

兄二人が早くして亡くなったからか、15歳の時に都である平城京へのぼり叔父である儒学者、阿刀大足の元で英才教育を受けんねん。

18歳になると最高学府である大学に入学してん。

大学は当時の官吏養成機関であり超エリートコースを進んでいた事を意味すんねん。

でも、空海は「もっと大切なことがあるんじゃあなかろうか」と出世のために通う周囲との温度差を感じ始め、次第に仏教に興味を持ち始めたらしいねん。


そして一念発起、19歳の時に大学をやめてしまい山岳修行者となんねん。そこに山があるから・・もうええか。

2.出家
ここからしばらく足取りが不明…。
ですが24歳の時に『三教指帰』を著してんねん。

これは出家に反対する親族に対する出家宣言を兼ねていたようやわ。

この中で阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬における体験が記されていることから四国の霊場で修行を積んだらしいわ。

3.唐へ
804年、31歳の時、幸運にも遣唐使のメンバーとして唐に渡ることになってん。

ただし、空海は私度僧(官許なく出家した僧侶)のため同じタイミングで国費で短期留学できる最澄とは異なり自腹でいってんで…。

しかも20年滞在することが条件やってん。

出発から半年後に長安に到着。見聞を深めつつ過ごし更に半年後、密教の第七祖である恵果を訪ね師事すんねん。

既に過酷な修行を積んでいた空海は恵果より密教の奥義を伝授され大日如来を意味する「遍照金剛」の宝号を与えられてん。

強そうな名前やね。

出会いから半年後の806年、恵果が没すると空海は密教を日本に広めるために帰ることにしてん。(滞在期間2年…。)

4.帰国
806年に帰国しますが勝手に早く帰ってきた罪や政局不安定のため京都へ入ることが許されず2年間大宰府で過ごしてん。


その間空海は持ち帰った品々と自身の早期帰国理由を記した「御請来目録」を提出。

809年、最澄の推薦もあり、ようやく入京を許され高尾山寺の住職になってん。

同年、嵯峨天皇が即位。天皇は空海の大きな後ろ盾となっていくねん。
 
5.密教布教
嵯峨天皇は空海と共に「三筆」の一人とされており文芸の教養が高かったらしいわ。

空海との相性も良かったと思われる。

空海は中国からのお土産をたくさん献上、天皇も高野山、東寺を下賜するなどしているねん。

空海は高野山、東寺を中心に密教の教えを広めていくねん。(このころから真言宗と名乗る)
 
6.弘法太子
空海は835年3月、62歳で高野山にてお亡くなりになってん。

没後86年後の921年、醍醐天皇より「弘法太子」の号が贈られてん。

特技
・日本語、中国語、梵字(サンスクリット語)も堪能。
・唐滞在中に土木、薬学を学んでいます。
・筆の達人(橘逸勢・嵯峨天皇と併せて「三筆」の一人とされています。)

ことわざ
・弘法も筆のあやまり
・弘法筆を選ばず